こんちには、BIRTHDeYの安江です。
今回は少し、言葉の話をしようと思いブログを書いてみます。
現在の案件内で英語のプロットを練りながら、ふと自分の生活における「英語」の立ち位置について考えていました。
私の妻は外国人です。そのため、我が家の会話の7〜8割は英語で構成されています。
こう書くと「なんと国際的でスマートな生活か」と思われるかもしれませんが、実態はもう少し泥臭いものです。
たしかに日常会話は英語ですが、調べ物をする段になると、私は迷わず日本語の検索窓に文字を打ち込みます。なぜか?圧倒的に楽だからです。
大人になってから身につけた言語は、どれだけ慣れても、母国語が持つ「言葉の温度感」や「行間に込められたニュアンス」までは拾いきれない(と信じたいだけというのもある)。
AIに要約させた翻訳文は便利ですが、文字が本来持っている感情の機微を拾い上げるには、やはり日本語というフィルターを通したほうが、私にとっては解像度が高いのです。
「カッコいい」の正体
それでも私が英語に惹かれ続けるのは、単純にその「見た目」がカッコいいから、という少年が真っ先に口にしそうな理由が根底にあります。
デザイナーの方なら共感していただけるかもしれませんが、アルファベットの羅列には独特の美学があります。
日本語、特に漢字は一文字一文字が重く、意味の密度が高い。対して英語は、もっとこう、すっきりと風通しの良い軽やかさがあるのです。
キャッチコピーを考える際、そのフォントが持つ感情と、英単語が持つ意味の深さを照らし合わせる作業は、パズルを解くようで楽しい。この単語にはこの書体だと重すぎる、あるいは軽薄すぎる。そんな些末なこだわりを独りごちながらデザインを組めるのは、英語という言語の「手触り」を知っているからこそできる遊びなのかもしれません。
我が家の「ネイティブ・チェック」事情
仕事で英語のコピーを書くとき、私には最強(かつ厳格)なパートナーがいます。妻です。
私が書いた英語を見せると、彼女はときどき「この表現は硬すぎる」とか「この文脈でこの単語は、感情が伝わらない」と指摘してくれます。
AIに尋ねれば「正解」は返ってきます。しかし、AIはこちらが「今のシカゴでこの表現は使いますか?」と具体的に聞かない限り、その良し悪しまでは教えてくれません。
一方、妻は違います。頼んでもいないのに(笑)、「その単語、おじいちゃんしか使わないよ」とか「意味は合ってるけど、なんか鼻につく言い方」といった、こちらの想定外の角度から「生きた情報」を投げかけてくれます。
この「予期せぬフィードバック」こそが、AIにはまだ真似できない、人間ならではの価値なのだと思います。
夫婦で「言葉の硬さ・柔らかさ」について議論を交わす時間は、私にとって単なる校正作業ではなく、異文化との真剣勝負のような趣があります。まあ、議論の末に私が折れることが大半なのですが。
翻訳機越しに「親友」になれるか
世間では「AIがあれば英語なんて勉強する必要はない」という声も聞かれます。私はそれを聞くたび、心の中でひっそりと「ラッキー」と呟いています。
皆がそう思えば思うほど、英語ができる人間の希少価値が上がるからです。
それに、想像してみてください。
翻訳機やAIを介して、誰かと腹を割って話せるでしょうか? 機械越しにジョークを言い合い、深い友情を築くことができるでしょうか。
「翻訳機を使ってあなたと友達になりたいです」と迫ってくる人がいたら、私なら苦笑いを浮かべつつ、タイミングを見計らって逃走するでしょう。
言葉ができるということは、相手の懐に直接飛び込めるということです。文化の壁、言葉の壁をひょいとまたいで、その向こう側にある「面白いもの」をクリアに見ることができる。
その視界の良さは、何にも代えがたい私の財産であると感じています。
最後に
これからも私は、英語というツールと共に生きていくでしょう。
といっても、それは何か高尚な志があるわけではなく、単に「使い慣れた道具が手元にある」というだけのこと。
英語というフィルターを通すことで、世界は少しだけ広く、そして少しだけカッコよく見える。
そのくらいの、あえて言葉にするほどでもない「ちょっとした得」を噛み締めながら、今日も私は、妻に私の怪しい英語のニュアンスを鋭く突っ込まれているのです。